猫は万物の祖

読書感想文など

主人公に主体性がないので3時間は流石に辛い『DUNE part2』※ネタバレ

始まった瞬間から(しまった退屈だ…)と思った。なんでこんなにつまらない?と考えてみたが、

 

・前回までの話を復習してこなかった
・主人公について『しょせん貴族のボンボン』感が強い
ジェイソン・モモアが出てこない
・主人公が母親連れ
ティモシー・シャラメの個人的好感度が下がっていた


などの理由で見る前から総合的に期待が低く、本編の中でそれを超えるものが一個もなかったため、といえる。

あとハリウッドが作る映画であの予言者の扱いはフェイクくさいと言うか、茶番くさい。エセイスラム感?エセ中東感?みたいな。

全体に脚本がだらけていて、漫然とみてしまった。あの内容に3時間は長い。

しかも途中からなんとなくチャニに対して不誠実な感じが出てきて共感できるポイントがないな〜と思ってたら最後のアレ。チャニはもうあんな奴のことほっといていいと思うよ。

視覚的な話で言うとパート1に比べて景色が変わらない(ずっと砂漠)なので飽きるというのもある。

いちばん好きなのは皇帝軍にドデカ砂虫の群れが向かっていくシーンの、最初の口がバーンって出てきたところ。みて、王蟲の群れが!って感じ。

次回、もしかしてチャニvs皇女なのか?誰がみたいんだそんなの?原作読んでないからわからないけど読む気がなくなってしまったな…(1の時に買って積んだままだった)。

どっちが勝っても結局最後にベネ・ゲセリットが笑う、みたいなのも全然好きじゃない。あの世界には誰にも『主体性』というものがない。運命だの予言だの組織の目的だのに従うだけで誰も自分の望みを言わない。言わないだけであるのかもしれないが伝わってこないのでないのと同じではと思う。唯一チャニだけがそういった自分の外側にあるものとは距離を置いており、順当に考えれば彼女の方が主人公にふさわしいのではと思う。

あくまでパート3に続けるための話だとしてももうちょっと盛り上げられないのか、と思った。

『ボーはおそれている』感想※ネタバレあり

可愛くない不思議の国のアリス

はじめからおわりまで視点人物が信用できないため、何が何だかわからない。解釈としてはボーの内的世界ということになるんだろうか?夢っぽい感じ。

カメラが本人視点でない場面もあり、より離人感というか夢感が出ている。

特に不思議の国のアリスっぽいな〜と思ったのは、トニに葉っぱを勧められるシーンと、最後の裁判のシーン。

ストーリーが進む中で、少女、息子を亡くした母親、妊娠中の女性、と女性の諸相が出てきてボーはそのほとんどに責められる。

お母さんが殺しても殺しても死なない、離れても離れても離れられない感じ。はじめのカウンセラーとのシーンで「お母さんの死を望むか?別におかしなことじゃない、普遍的なことだ」(※うろ覚え)とあるがこれが全体のテーマとなっている。

お芝居の、いないはずの息子を探すシーン〜父親?が話しかけてくるシーンあたりからどんどん訳がわからなくなる。

むしろ死体のすり替えトリックで論理が通っているのが怖い。なんであそこだけ急に正気に返るの?

全編通して、ボーは父親(男性、もしくは割礼された男性器そのもの)に暴力を受け、母親(女性)に責められる。その二つの恐れがかわるがわる形を変えて立ち現れる。

終盤の屋根裏部屋のシーンで父親?のほかに監禁されている男がいるが、つまりあれはボーに兄がいた(夢で見ていた勇敢なもう一人の僕は自分ではなく実在した)という解釈ができ、つまりボーが母の「お父さんは初夜に死んだ」という話が嘘だと気付いている、ということの表現なんだと思う。実際に兄がいるかは怪しい。

ボーは伴侶を得ることが人生で最も大切なことだという圧を感じながら、同時に性的なことを強く嫌悪している。母から聞いた父の物語がボーの妄想でなく実際に母の口から出たものであればそれは虐待と言っていいものだと思うが、ボーはそのトラウマを乗り越えようとして失敗し続けている。

ラスト、ボーは転覆したボートから落ち、水面から顔を出すことなく映画は終わる。これは劇場に灯りがついた時点で我々観客が夢から醒める、ということも含めての演出と思った。

繰り返し出てくる『水』のモチーフは、割礼とあわせて宗教的なものだろうと思うが、その辺はよくわからなかった。

ちなみにボーの母が言った「違う、私の家」は私も親に言われたことがあり、実はよくあることなのか…?と思った。どうなんだろう。

2024/2/4 映画感想文『哀れなるものたち』

『哀れなるものたち』鑑賞。すごく良かった。エマストーンのお芝居がすごい。女性が禁じられてきた・ていることのカタログみたいな映画。

それにしてもマックスのあの落ち着きようはなんなんだ!?と思って原作小説を買いに行ったが品切れだった。デートに最適な映画だと思う(試金石的な意味で)。

ベラの態度は一貫していて、侮辱されても、相手が受け取らなければ侮辱は成立しない、ということ。

ベラが世界を知ろうとする、実験するという目的を見失わないのが良かった。特に娼館の主人と話した後の仕事の仕方、自分の職掌の範囲内でできることをするのがとても面白い。

彼女のセックスに対する態度は身体が自分のものじゃないという感覚によるのかもしれない。

作中で正気を失う男二人に共通しているのは『所有欲』であり、つまりは自分の外に自分の価値を求めることのように思った。

特にダンカンのいう『遊ぶ』には『相手は本気になるが、自分はならない』という支配-被支配の関係性が含まれていて、そのことに気付かされた時プライドが砕かれる。お前気付いとらんかったんかい、という感じである。砕かれた結果、相手に愛されるよう努力するのではなく自分と同じように破壊しようとする。

一方、もう一人はベラの脳が胎児のものであることを知らされてもそのことに頓着しない。このことが彼が彼女をどう捉えているかを示している。ラストシーンはその意味で因果応報的。

ベラが母であると同時に娘である、ということがかなり含蓄ある感じなんだけど深すぎて(そういうもんかな)くらいの受け止めである。

この映画には中高年の女性が重要な役割で三人出てくる。メインの男性は四人だがこちらもみな中高年(マックスは若いかな?)。最近洋画洋ドラを見ててこの辺が邦画が大きく水を開けられているなと思う点。日本でこういう映画を撮ろうと思うと(まず撮れないと思うが)、平均年齢が20歳は若くなるんじゃないか。若くなく典型的美形でなくモデル体型でもない、そういう登場人物がどのくらい出てくるかという話。

それにしても欧米の文学に通底するキリスト教的価値観、これは一回ちゃんと勉強しないとなと思う。

 

追記)

女性のセックスの最大リスクである妊娠について、全く何も触れられてなかったんだけど、あれは多分ベラが生まれた時に妊娠に関する機能は失われたということなんだろう。初潮も生理も妊娠もない。だからゴッドはベラをあんなに落ち着いて見送ったんだろうなと思う。

明示されていないがゴッドが父から去勢されたと発言しているので多分そうなんだろう(重ね合わせて暗示している)。

アラビアンナイトを読む(読みたい)

東洋文庫アラビアンナイトを揃えて通読したい、という念が何年もある。

 

そもそもは高校の図書館にあって読んでいたのだが、最後まで読んだ覚えがない。

自分が読んでいたのが東洋文庫版ということだけは覚えていて、神保町に行くと探したりしてたんだけど、全巻揃いというのにあまり当たらない。

うーん、他の版を買うか?と思って何年も、十何年も放置してあった。ときどき思い出しては探し。書店で美麗な装丁のアラビアンナイトを見つけては買いそうになっては止め、の繰り返し。

で、今日ひさしぶりにその発作が来て、少し真面目に調べた。

その結果、アラビアンナイトはほとんどが英仏からの重訳で、元が不完全な訳が多いということがわかった。バートン版とかガラン版とかってそういうことだったのか。

東洋文庫は初のアラビア語原典からの日本語訳とのこと。へー。なんか独特だと思ってたんだよな。

おぼろげな記憶で東洋文庫版のおもしろかったところは、魔神とかがみんなイスラム教徒で、「アラーの名にかけて」とか言われると交渉に応じちゃったりするところ。あれも原典訳じゃないと消えちゃう部分なのかな。

どうも私が読んだのは『東洋文庫版』『前嶋信次訳』らしい。

 

で、本を探し始めたんだけど、古本でも全巻セットというのがほとんど出てこない。マジか……と落ち込んでいたところ、Amazonにペーパーバック版というのが出ている。これはあれか、オンデマンド印刷ってやつか?

と、思って注文しかけたが、よく見るとなんだか全巻ないような気がする?なんだ?これは。

混乱しながら、今度は『アラビアンナイト 東洋文庫版 前嶋信次訳 オンデマンド』で検索すると、三省堂さんの楽天店がひっかかった。ほうほう。今度こそオンデマンドって書いてある。しかも三省堂でしか買えないって書いてある。巻数を確認しよう。19冊ある。全巻あるじゃない!やった!

というわけでオンデマンド印刷の1巻をポチッとした。

さ〜通読まで何年かかるでしょーか。